石井裕也監督インタビュー 『生きちゃった』

凄まじい映画が出来ましたね。『生きちゃった』は香港国際映画祭が提唱した「原点回帰。至極の愛」(B2B(Back to Basics)A Love Supreme)というプロジェクトから生まれた作品ですが、この依頼はいつ来たんですか?

(石井監督)2019年の6月です。もともと2008年の「アジア・フィルム・アワード」でエドワード・ヤン賞(アジア新人監督大賞)を受賞した時の選考に関わっていたジェイコブ・ウォンという方がいて、彼は以前、香港国際映画祭のディレクターでした。ずっとお世話になっていたんですが、今回、東アジアから6人の監督を選出して行う面白い企画があるから、ぜひ挑戦してみないか、と。

それはもう、断る理由はないという感じですね。

(石井監督)ただ実は、少し悩んだんです。ちょうど2019年に韓国で『アジアの天使』という映画を撮る予定がありまして、その厳しいスケジュールの中でもう1本映画を撮る時間が取れるのかどうかと。しかも1500万円という企画側から提示された予算の中で、満足のいく映画を撮ることができるのか……そのプレッシャーを背負うのは正直キツかったんです。
ただ期せずして、その韓国映画の予定が2020年の頭にスライドしてしまいました。それでスケジュールがぽっかり空きまして、「じゃあ、やるか」と急遽突撃することを決めたんです。

今回は石井監督自身がプロデューサーも兼ねています。

(石井監督)今回は予算の受け取りも含めて、すべて僕が窓口になっていたんですね。僕は自主映画出身の人間なので、そもそも自分でお金を管理して、全体を仕切りながら監督することが映画作りの原点でした。今回はプロの製作現場としては低予算ですし、「原点回帰」が企画のテーマでしたから、最初のやり方に戻る機会としてはちょうどいい。しかも条件の枠内であれば、自分がとことん納得できるものを追求することができる。もちろん逆に失敗する可能性もあるでしょう。その際に言い訳を一切できないようにするためにも、自分が全部責任を引き受ける形にしようと思いました。

なるほど、『生きちゃった』は実質的に自主映画なんですね。

(石井監督)完全に自由に撮れる半面、大きな責任が伴う。そういう意味で、そうです。映画祭から渡されたお題も「愛」と「原点回帰」のみ。ジェイコブからは「何でも自由にやってくれ」と言われました。ならば本当に、愛と衝動と魂。それだけで映画を作ろうと。くだらないルールとか、しがらみとか、どうでもいい常識などの不純物は一切いらない。商業映画としての通常の在り方は一旦全部無視して、今回は作品の純度を高めることだけに集中して、余計なものは全て削ぎ落していきました。

企画の依頼が2019年6月で、クランクインが同年9月。電光石火のスピードですね。脚本はわずか3日間で書き上げたとか?

(石井監督)はい。「愛」というテーマについて色々考えていた時、たまたま小学校の時の友だちから急に電話が掛かってきたんです。そしてある告白を受けました。「一夜にしてすべてを失った」と。
その旧友の名前を仮にK君としておきますけど、彼は小学生の頃から優等生で、すごく優しくて、みんなに人気があったスーパーヒーローみたいな奴だったんです。それが妻の浮気によって、家も、子供の親権も失ってしまった、という話でした。もしかしたら30代半ばにして人生初めての挫折だったのかもしれない。
僕はその話の深刻な内容に尋常ではない程のショックを受けました。
そこでこの一件に心を激しく突き動かされて、7月の8~10日の3日間で脚本の初稿を一気に書き上げたんです。K君は決して主人公・厚久(仲野太賀)のモデルというわけではないですけど、着想の大きな出発点になったのは間違いありません。

「一夜にしてすべてを失った」というのは、逆に言うと、ひとつの失敗で瞬時に転落することもあるのが今の日本社会なんだ、ということですよね。

(石井監督)まさに。ある種の社会のルールみたいなものにK君は裏切られてしまったわけです。例えば、仮に奥さんの方に過失があったとしても、今の日本では、親権に関しては母親の方に渡ることが圧倒的に多い。離婚した場合は建てた家も現金化して、資産として折半する。マイホームを失い、多額の借金を背負いながら、彼は人生の再スタートを切るしかない。もちろん別れた妻子の方も、それ相応の現実の困難が待ち構えているでしょうが。

この映画は「言葉」がテーマのひとつでもありますよね。例えば厚久と武田はフィリピン人の女性から共に英語を習っていて、二人が「不思議だよな。英語だとすらすら本音を言える」と呟き合うくだりがある。バイアスが入っていた方が、何故か素直になれる。ここにはツールとして言葉に対する批評的な目線があって、それは日本人的な自意識の問題につながっているようにも思えます。

(石井監督)僕は日本語って、知らないうちに自然と主語が消えていく特殊な言語だと思っているんです。特に大人になると、その傾向がどんどん強くなる。「私はこう考えている」ではなく、「私共は」とか「上の者が」なんていう主語を混ぜていくうちに、話す人の主体が自然と曖昧になっていく。目の前にいる個人の意見なのか、その人が属している組織の総意なのか、区別がつかなくなってくる。あなたが発している言葉は、いったい誰の言葉なのか? そういった時、僕は誰と話しているのかわからなくなる不安と混乱に陥るわけですよ。
自分の言葉に自分で責任を取ろうとせず、実態が曖昧な「大きなもの」に転嫁してしまう。しかもごく自然に。個人の自意識を乗っ取ってしまうような、アンタッチャブルで不可思議なものが日本人の意識の中心にあるのかもしれない。だから肝心な時に、自分の実感が伴った言葉がなかなか表に出てこない。そんな社会って何なんだろうって思うわけですよ。これは良し悪しじゃなくて、その問題を日本人は延々と引きずっているんじゃないかと。個人的に、そのことを興味深く思うんです。

面白いですね。『生きちゃった』は主語を見失った日本人……「私」という主語を喪失した人間が、どうやって「私」を取り戻していくのかという話にも捉えられますね。

(石井監督)おそらく厚久というのは、受け入れられないことをずっと黙って受け入れてきた人間です。家庭では妻・奈津美が新しい恋人を迎え入れたことでやがて疎外され、職場では資本主義の先端のような流通の場所で機械的な作業に従事している。しかし彼が「言わない」ことを選択してきたせいで、とうとう最愛の娘・鈴まで剥奪されようとする時に、彼はいかなる「愛」の示し方をするのか。

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年)で池松壮亮さんが演じた主人公・慎二はおしゃべり。対して、厚久は寡黙な男。このふたりは表裏一体のキャラクターに見えました。

(石井監督)そうなんでしょうね。『映画 夜空~』の慎二は、自分の素顔や本音を隠すために意味のない言葉をつらつらと重ねている。つまり言葉が絶えず上滑りしているというか、空転している。表面上は饒舌だけど実は「何も言っていない」ことと同じ。
慎二も厚久も、自分の考えや心境をリアルな言葉で表現できない。それをどうにか回復させないと、結局は大切なコミュニケーションの中で疎外されていく。
ちなみに今、コロナ危機が起こったあと、形式ばかりのスローガンとか、世の中には表面的に取り繕った言葉ばかりが溢れている気がします。いろいろな人がいろいろなことを言いましたが、本当に胸に迫る言葉は何一つなかったのではないか。少なくとも僕はまだただの一度も聞いていない。こういう非常事態になった時に、我々の使う言葉の嘘っぽさや上辺っぽさが、より露呈されてしまう感があると思いますね。

『生きちゃった』で驚かされるのはラブシーンの濃厚さです。石井監督の中では珍しいアプローチだと思うんですけど、いかがでしょうか?

(石井監督)ここまで露骨に性交シーンを描いたのは、初長篇の『剥き出しにっぽん』(2005年)以来かな(笑)。ちょっと理屈っぽくなってしまうんですけど、「愛」について考えた時に、僕が最初に連想したのは「死」だったんです。
悪い冗談のように人が死んでいく今という現実があって、そのことを脚本にしたくなった時に、だとしたら逆に、激しく生きることを描かないと収まりがつかない。人間が血肉の通った生き物として、思いっきり燃焼している姿を映し出さないといけないと思いました。

確かに石井監督の作品の中で、これほどまでに「あっけない死」が次々に訪れる展開は初めてかもしれないですね。例えば『ぼくたちの家族』(2014年)のように、登場人物たちにとって、ひとつの決定的な「重たい死」が提示されることの方が多かった。

(石井監督)やはりそこには僕自身の根本的な変化や転換があると思います。自分の子供が出来たことで「失う恐怖」が大きくなっている。例えば同世代の知人がこういう話をしていました。彼が自分の子供をベランダであやしている時、「ここから落ちたらこの子は死ぬよな」と強烈に思うようになって、どんどんその悪い想像が強くなっていった、と。僕もまったく近しい感覚を持ったことがあります。
日々のニュースでも、世界中で人間が簡単になぶり殺されている現実が伝えられています。コロナの状況を見ても、毎日簡単に死者が数値として計上されていく。そこに人間の悲しみや体温はほとんど感じられない。自分の子供もその中に入ったらどうしよう、という恐怖や不安に苛まれることが多くなったんです。

ある種、「死」が軽いものとして溢れている世の中で、そこへの必死の抵抗が「愛」であり、「生きる」ことへの希求だと。

(石井監督)最終的に「生きる」っていうことの強烈な意思を示すのはラストシーンだと思っていて、『生きちゃった』はそのための映画と言ってもいいぐらいですね。脚本執筆の段階から早いタイミングでそのイメージがあって、それに向かって書いていった。

キャスティングについてお聞かせください。厚久役の仲野太賀さんはTBSドラマ『おかしの家』(2015年)の第9話で石井監督の作品に初出演。映画では『町田くんの世界』(2019年)に続いて今回が二度目になります。

(石井監督)彼とはかつて、家が近所でよく一緒にメシ食ってたんです。太賀がまだ10代の時から近しい存在でした。
でも、そういう私生活の仲良し小好しを延長させたキャスティングって好きじゃないから、太賀とは5年は仕事しないって決めてました。『おかしの家』は出会ってからちょうど5年目。その撮影が終わった時に「また5年後な」って言って(笑)。結局ちょっと早かったけど、『町田くんの世界』にも出てもらいました。
今回は主演で、作品を背負う役どころですから、僕としては彼の成長に賭けてみるところが非常に大きかったんですけど、期待以上どころか、申し分のない仕事ぶりでしたね。本当に良い男、役者になったと思います。スタッフもみんな素晴らしかったって言ってました。

武田役の若葉竜也さんと組んだのは初めてですね。

(石井監督)演技的な難易度で言うと武田が今回いちばん高かったと思うんですが、まずキャスティングを決める段階から、僕の周りにいる映画関係者やスタッフが全員若葉君を絶賛していたんですよ。今回、太賀に主役をお願いするに当たって、その相棒となる人を僕の知っている役者で選んでしまうと、盤石なものになりすぎてしまって面白くないと思ったんですよね。映画がいい意味で不安定にならないというか。新しい風をもたらしてくれる人じゃないといけないなって。
彼は面構えがいいんです。気の強さと臆病さが衝突しているような、優しさと狂気が共存しているような、そんな目をしています。会ってみて思いましたが、人間としての器がとても大きい。この映画で太賀が輝いているとしたら、それを支えたのは確実に若葉君の存在と芝居であり、言うなれば映画全体の屋台骨を支えたのは若葉君です。彼の不思議な色気と魅力が、映画のムードを決めたと言っても過言ではありません。

奈津美役の大島優子さんも初の石井組ですが、実にパワフルでした。

(石井監督)あまりにハードなシーンの連続で大島さんには申し訳ない気持ちだったんですが(笑)、こちらの期待に十二分に応えてくれましたね。AKB48に在籍されていた頃の総選挙を観ていても、負けん気が強いイメージがあって。「なにくそ根性」というか。ただ、現在の彼女の年齢や状況を迎えて、そのパワーの放出の仕方に若干戸惑っているんじゃないかっていう勝手なイメージがあったんです。だから挑戦しがいのあるハードルの高い場さえこちらが作れれば、こういう小さな映画でも我武者羅になってポテンシャルを発揮してくれるんじゃないかって思っていましたね。とは言え、多分断られるなぁと思っていましたが、大島さんはすんなりオファーを快諾しました。勇敢というか、肝が据わってますよね。
映画を作ると決めてからクランクインまで2ヵ月しか時間がありませんでしたが、この3人が揃ったことはほとんど奇跡でした。

厚久・武田・奈津美という幼なじみのトリオは独特の関係性を築いていますが、特に武田という人間はこの三人の世界の中だけで生きていて、ひたすら厚久と奈津美の言動を受け止める役回りです。特に厚久との関係は一種濃密なものがありますね。

(石井監督)『生きちゃった』をラブストーリーとして定義するなら、おそらく厚久と武田のラブがいちばん濃いでしょうね。実際、この映画を観てくれた人たちの反応としては、彼らふたりのラブストーリーとして受け取っている向きが多いらしいです。

「至極の愛」というお題も色んなアングルがあるってことですよね。映画の冒頭シーンでは高校生だった少年ふたりが30歳になって、「お互い足とか、昔に比べて臭くなった」とか体臭の話をしますよね。例えばあそこに厚久と武田の夫婦感がにじみ出ている。共に歳を重ねてきたことをしみじみ噛み締め合う距離の近さがある。

(石井監督)そう、厚久と武田の方が「夫婦的」ですよね。一方、厚久と奈津美という実際夫婦になった男女の関係は破綻している。皮肉ですよね。

ラストシーンも、厚久が娘への抑えきれぬ愛の表出を示す局面であると同時に、厚久と武田のラブシーンにおける絶頂だとも言えますか?

(石井監督)そうですね。いちばんはそれなんじゃないかと。たぶんそれは『生きちゃった』という映画の物語が立ち上がる発端が旧友のK君からの電話だったからだと思います。小学生の時とかのすごく濃密な友情ってあるじゃないですか。あれがいきなり30代の僕の中で再燃したんだと思います。だから、ここまで子供みたいな男ふたりの話になった。少年の頃のように純粋な友情や情愛を描きたかった。

周りのキャストも皆さん素晴らしかったです。世界のアウトサイドに居るような厚久の兄・透はキーパーソンのひとりですが、『ムサン日記 白い犬』(2010年)や『生きる』(2014年)などで知られる韓国の映画監督、パク・ジョンボムさんが演じておられます。

(石井監督)パク・ジョンボムとは2014年の釜山映画祭で審査員を一緒にやった時からの友人で、韓国で撮った新作『アジアの天使』のプロデューサーでもある。彼と僕には、それこそ厚久と武田ばりの濃密な友情があります。30歳を過ぎてから出会って、自分でもビックリするぐらい仲良くなりました。会う度に酒を飲んで、キャッチボールをしています。
海外の映画祭の人たちからは驚かれてます。何故石井とパク・ジョンボムが友達なのかって……。いつも一緒にいるので「あいつらは完全にデキている」と言っている人もいるそうです。僕たちが作る映画は、見え方は全然違うでしょうけど、マインドとしてはかなり近いと自分では思っています。
透というキャラクターに関しては、そもそも世界を見ている視座が他の人たちとは違っていて、浮世離れした天使のようなピュアな存在です。だから彼はずっと白い服を着ている。そういった独特の目やオーラを持っている人って誰だろうなって考えていた時に、日本人ではなかなか居ないなと悩んで……そうか、パク・ジョンボムだ!って思いついた時に、何もかもがしっくり来ました。この映画における最大の博打的なキャスティングですが、明らかに成功したと思います。

ミュージシャンのレ・ロマネスクさんはご本人役で登場しています。

(石井監督)2010年のパリ国際映画祭で知り合ったんですよね。レ・ロマネスクさんは映画祭のマスコットキャラクターだった(笑)。それ以来、連絡を取り合ってたんですけど、いつか映画に出てもらいたいと機を窺っていました。あの凄まじい世界観に僕は一周回った「日本」を感じるんです。彼らは一見すると映画のノイズのように見えるかもしれませんが、実は作品のテーマにピッタリの存在です。
最初に『生きちゃった』は自主映画だと言いましたけど、確かに自分の人生に深い関わりあいのある方か、個人的に強い信頼感を抱いている人しかキャスティングしてないんですよね。僕自身が感じる存在としての太さが何より重要で、その人の魂をゴロっと映画に置くんだっていう。とにかく強い作品にしたかったから。

撮影は14日間ですよね。全編、9月の後半に撮っていると聞いてびっくりしました。物語の設定上は夏と冬しかないですよね。半年ごと時が経過していく。

(石井監督)この映画には、人間にとって過酷な季節だけでいいと思ったんですよね。むしむしする熱い夏と、凍えるように寒い冬。ただ、物語の中に流れる時間の経過はしっかり伝えたかったですね。

これまでの石井監督の作品にも、人間同士のコミュニケーションの在り方や難しさが中心課題として置かれていたと思いますが、その模索や葛藤がこれほどソリッドに研ぎ澄まされた形で提示されたのは今回が初めてじゃないでしょうか。2020年の新作として『生きちゃった』を世に出すに当たり、ご自身が扱ってきた主題について改めて考えたりすることはありますか?

(石井監督)例えば『舟を編む』なら、コミュニケーションの難しさや愛おしさをパーソナルな問題として扱っていたんですけど、『生きちゃった』では我々が置かれている社会状況と非常にリンクさせながら描いています。それはまさに「言葉」の問題も絡みます。今の日本人が置かれている状況……つまり、言いたいこともなかなか言えない。どうせ言っても「具体的な代案を出せ」とかなんとか言われるから、「私」の責任で「言葉」を出すことをあらかじめ放棄してしまう。そういうムードが息苦しい世界の起因になっていることはもはや疑いようがありません。
ただ一方、ダイレクトな形で心情を「言葉」に出さないことは日本人の伝統的な特性、良さでもある。よく言われることですが、阿吽の呼吸や本音と建前などに代表される「察する」文化ですね。今回のプロジェクトは海外資本でしたし、どうしても対象化する形で日本的な「愛」について考えざるを得なかった。「隠す」とか「潜ませる」とか「含ませる」愛についてです。そういう日本人の姿勢や態度を世界の人たちは奇妙なものと捉え、時に疑いのまなざしを向けるわけですよね。だけど、雄弁に感情を言葉で語れるような言語体系や感覚を持っていることが、必ずしも「愛」の正しい形ではないのではないか。僕も日本人ですから、ちょっと自分たちの肩を持ちたくなるわけです。奥ゆかしくもあり、面倒臭くもある。そういう態度でいる日本人のさりげない「愛」が僕は結構好きなんです。

日本人的なるもの、「愛」や「言葉」への独特の距離感は、問題になっている部分と美徳となっている部分がある。石井監督の中で両義的な想いがあるということですね。

(石井監督)はい。例えばアガペーというキリスト教の概念としての神の「愛」、そういうものを日本人はすっ飛ばして愛を考えようとしているわけですよね。だからそもそも「愛」というものの本質が分からない。だから他者に対して雄弁に語れる愛よりも、胸の内に「潜ませる」愛にこそ真の価値がある、ような気がする。
だけど例えば政治的な意味合いで見ると、今の時代はその日本的な文化、態度が裏目に出ている。誰もが本音を言わないし、口をつぐみますよね。で、なし崩し的に全てを受け入れる。
とは言え、この映画の中で「はっきり本音を表明したらいいじゃないか」という直接的なメッセージを残したいわけでは全くない。不器用な態度でボロボロになっても持ち続けている「愛」とか、そうせざるを得ない人間の魂を、最後に強烈に描くことで、この映画は終わる。
「愛」とはなんだっていう回答ではない。「愛」というものに対しての強い衝動ですよね。その迫力と熱気こそが重要だと思っていました。

『生きちゃった』は「あっけない死」が続く負の連鎖の話でもあります。どんどん大切なものが失われていく話。それでも黙って耐え続けている主人公がいて、最後に何が残るのか?といった時に、せめて声にならない声を上げることしか、前に進む可能性は残されていないのかもしれない。

(石井監督)そうです。率直に言いますと、厚久は僕の考える日本人そのものの象徴でもある。そして、もっと俯瞰してみると、もはや我々は大切なものを色んな外圧から剥ぎ取られ、いよいよ最後の一つまで手が伸びかかっている。要するに日本、日本人は、それほどヤバいところまで来ているという認識の反映です。そうは思わない人もいると思いますが、僕はそう確信しています。ほとんど悪い冗談のような世界です。この映画では「笑っていいのかどうか定かではない笑い」が散りばめられていますが、それは今の世界の状況と全く同じだと僕は考えます。
声を上げようにも、もはや言葉がないかもしれない。それでも抗い続けるしかないと思いますね。