大島優子インタビュー 『生きちゃった』

まずはこの作品に出会ったきっかけについてお聞かせください。

(大島)石井監督から名前を挙げていただいて、その後、脚本を読ませていただいて「何だ、これは!?」と驚きました。

石井組に参加するのは今回が初めですが、監督とは以前から面識はあったのでしょうか?

(大島)全くありませんでした。ただ、仲野太賀さんと若葉竜也さんのことは10年前から知っています。しばらくお会いすることはありませんでしたが、この作品で共演できて、しかも高校生からの幼馴染という役柄でご一緒できて、とても感慨深いです。
石井監督とは、撮影に入る前に監督と何人とかでお食事をさせていただいたのですが、その時にも監督からずっと観察されていました。「さっきの話をしている時、あんな表情になるんだね」とか、「ここの角度から見ると顔の雰囲気がすごい変わるよね」とか言われたりして。まだ撮影も始まってもいませんでしたが、その時から、石井組に参加したら、「きっと、こんな風に撮るんだろうな」とか「こんな風に意思疎通をしながら演出してくれるんだろうな」と撮影風景を想像できました。

この作品では、これまで見たことのない大島さんの姿が見れます。大島さんにとって挑戦的な役どころだったと思います。撮影に入る前はどんな心構えでいらしたのでしょうか?

(大島)撮影に入る前に、監督と仲野さん、そして若葉さんと一緒に台本を一言一句みんなで確かめあう時間がありました。それはいわゆる普通の本読みとは違って、各々が引っかかっている部分を確認するものでした。これはどうしてこういうセリフなのか。その意図は何なのか。ト書きについても「そうじゃなくて、こうしてみよう」というディスカッションを繰り返して、自分たちの腑に落ちない点が無くなるようにする時間を監督が設けてくれたんです。そういった時間があったおかげで、登場人物の温度感や、それぞれの立ち位置や背負っているものが見えてきました。
その後、監督抜きで、仲野さんと若葉さんの3人でも食事に行きました。決起集会みたいな感じで。そもそも、久しぶりの再会だったので、「趣味はなんですか」という話から始めていましたね。その後は、作品全体の話というより、同級生として長い年月を共にしたこの3人を、短い撮影期間の中で、どう濃密に構築していくかを話し合いました。

この作品には、おそらく映画を観た多くの人達に強烈な印象を残す大島さんのシーンがあります。この作品によって大島さんご自身が何か変化したと思うことはありますか?

(大島)奈津美が死ぬ間際に、ト書きで「叫ぶ」って書いてあったんです。だけど、言葉で「叫ぶ」って書いているのを見てもどこか安易に感じてしまう部分がありました。死ぬ間際、自分がこの世からいなくなると感じる時ってどういう思いなんだろうって。監督からは、本読みの時も「ここはちょっと分からないから現場でやってみよう」って言われていたのですが、当初監督には「私はきっと叫ばないと思います」って言ってたんです。でも、いざ現場でやってみたら、最後の足掻きというか、人間どうしても生きたいと思うと、声を出すのかもしれないと思い始めました。思ったと言うか、実際の現場で“出てしまった”んですよね。その瞬間にバッっと声を上げる、自分の何かが爆発したような感覚でした。“心が裸になった”ような感覚でした。

“心が裸”にとは?

(大島)撮影を終えて2か月ぐらいたった後に、石井監督から「あの瞬間に何か大島優子の想いというか、心が爆発したような気がしたんだけど、あれは一体何だったんですか」と質問されて、それをしばらく考えてたんですけど、整理がつきませんでした。
今振り返ると、あの時は、ただただシンプルに「生きたい」と強く思ったんだと思います。それが一気に爆発したんだなって。あの叫びには、これまでの自分の人生の背景とか、背負ってきたものが、凝縮されていると思います。人生の最期の断末魔って、きっとそういう事を含んでいるんだと思います。映画を見て初めて、「ああ、私こういう叫びをしてたんだな」って気づきました。

あのシーンは自分でも予期していなかったことだったんですね。

(大島)あのシーンは後半に撮ったんですけど、そもそも石井組の演出現場では、自分が考えていることがすぐ監督にバレてしまうんです。ちょっとした自分の心のジリついてるものとか、ハっと気が抜けたものとか。そういったもの全てが石井監督に知られてしまうので、全てをさらけ出して、監督とはうまく意思疎通というか、以心伝心できて、つながっていたと思います。監督の演出と自分の心がきちんと繋がっていたからこそ、あそこのシーンを撮れたと思います。元々ある台本に何か色付けしたりとか、自分で膨らませていくっていうのは役者さんの仕事なんだろうなと思います。「叫ぶ」と最初に台本に書いてあって、そのことを咀嚼して、一回自分で抗ってみたりもしたのですが、結局最後には叫んでしまったので、“してやられた”という感覚です。石井裕也が脚本・監督・プロデュースしている作品なので、何とかそこに反骨心というか、もっと自分で色付けしてプラスアルファが出来たらと思っていたので、少し悔しいです。でも、作品を作るとことは、そういう相乗効果があってこそだと思うので、「してやられた(嬉)」ですね。

仲野さんの現場での印象はいかがだったでしょうか?

(大島)仲野さんと監督は長い付き合いで、プライベートでもすごく仲が良いということは知っていましたし、現場で二人がやりとりしてる姿を見たときに、互いに信頼し合っていることを強く感じ取れましたし、二人が作り出している空間がとてもカッコ良くて、近くで見ていて単純に「いいな」って感じましたね。仲野太賀がこんなにも監督を信頼しきってやっているなら、私も同じように監督を思いっきり信頼してやろうっていう気持ちになるのは必然で、自然となっていましたね。

他の作品でも石井監督は演者と感覚的なものを共有している感じがしていて、演者とは親友でありながら戦友みたいな関係を構築される気がします。現場を終えて、大島さんもそういった関係を築けたのでしょうか?

(大島)そうですね。石井監督はおそらく「同志」という感覚をとても大切にしているんだと思います。私もその感覚はとても好きです。そういった人間関係を築く必要があった場所に私もいたことがありますし、監督とはそこの共有みたいなものはすごくできたと思います。

奈津美についてはどのように思っていますか?

(大島)奈津美に対しては、女ってこういうもんだよな、って思いしました。二面性というか二面性以上にいろんな顔を持つのが女の人だと思います。人によって見せる顔が違う。奈津美はそのやり方で生きている。これまで、そういった役をやったことなかったので、私にとってはとても挑戦的でした。彼女は、いろんな表情を見せます。小憎らしさ、悲しさとか、這いつくばって何とかしようとしてるところとか。感情を剥き出しにして、裸のまんま戦っているような人間だったから、私もそのままそれを演じないといけないという思いが強くありました。そんな気持ちになったのは初めてでした。今までは「これつけよう」「あれつけよう」っていったように、どっかから引っ張ってきて役を構築してきたところがあるんですけど、奈津美を演じるには、何も付けないで、誰をイメージするとか、どういう風にするとか、ではなくて、女そのものにならなければ、という思いが強くありました。“裸になってやる”という思いですね。

完成された映画を観て、どのように思いましたか?

(大島)今の日本が凝縮されているのがカオスで面白いです。言葉で言うと簡単ですけど、今の日本の問題点を浮き彫りにしていると思います。
この映画のタイトルには、捉え方が色々あるなっていう風に思います。映画を観たときに、自分の「生きちゃった」ってなんだろうなって考えさせてくれる映画だと思います。私自身は「生きちゃった」っていう言葉は、「生かされた」「生かされてる」っていう意味合いに転換されましたね。登場時人物の厚久にも武田にも奈津美にも、どの人にも共感できまたし、一体どの人が「生きちゃった」人なんだろうっていうのを探しながら、感じながら見ました。